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2011/01/17

羊をめぐる冒険(上) 村上春樹


羊をめぐる冒険(上) 村上春樹
¥500(送料無料)



2004年11月発行(単行本は1982年10月発行)
講談社文庫
268ページ


こちらの小説、文庫本が出たのはずいぶん遅かったのですね。村上春樹の初期代表作「羊をめぐる冒険」は単行本では405ページです。

私の場合、だいぶ昔「ノルウェイの森」ではじめて村上春樹の作品に出会ったのですが、その後とんとご無沙汰しておりました。

そして、一大ブームとなりました「1Q84」3冊で久しぶりに彼の小説と出会い、今度こそどっぷりはまっていくようになったのでした。

「1Q84」以後読んだ作品は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ダンス・ダンス・ダンス」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「スプートニクの恋人」「風の歌を聴け」あたりでしょうか。
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「羊をめぐる冒険」は、文庫版だと上下巻に分かれています。上巻では、主人公の男性が、とてつもなく耳が魅力的な女性に出会い惹かれ恋人になるところから始まります。

固有名詞はありません。29歳ということしかわかりません。村上春樹の小説は、主人公の男性と彼を取り囲む人間に固有名詞がないものが多いですね。「羊をめぐる冒険」では、主人公が飼っている猫にさえ名前がないというのですからおもしろおかしいです。

耳が魅力的な彼女とは、主人公が広告のコピーを作る下請け会社で働いていて出会いました。巨大な耳だけの写真3枚が渡され、3種類のコピーを用意してくれというのが依頼内容でした。

その耳がいかに印象的なものだったかというのは、以下のように表現されています。

・・・まったく夢のような形をした耳だった。

百パーセントの耳と言っていいだろう。

・・・あるカーブはあらゆる想像をこえた大胆さで画面を一気に横切り、あるカーブは秘密めいた細心さで一群の小さな翳を作りだし、あるカーブは古代の壁画のように無数の伝説を描きあげていた。

耳たぶの滑らかさは全ての曲線を超え、そのふっくらとした肉のあつみは全ての生命を凌駕していた。

ここまで耳について表現できる村上春樹もすごいですが、主人公がこの耳の彼女に会いたいと撮影カメラマンに名前と電話番号を教えてもらうのもすごい。ちなみに顔は知らないのです。耳のアップしか。

耳の素敵な彼女は、見た目は普通の女の子でした。しかし不思議な能力があって、これから起こることをさらりと予言するのです。

あと10分ばかりで大事な電話がかかってくるとか、その内容は羊のことだとか。それらは的中し、主人公と彼女はその後羊にまつわる冒険に巻き込まれていくのです。

主人公が、今は姿を消して行方不明な「鼠」なる友人から、たくさんの羊が山のふもとにたわむれている写真を渡され、どんな形でもいいのでこれを世間に公表してほしいと頼まれます。

それを、仕事を依頼された生命保険会社のPR誌に掲載した主人公。

しかし、謎の男が現れ、そのPR誌の発行を即刻中止してほしいと頼まれます。もしそうしないと、会社はつぶれると脅されます。

その男はある強力な権力の持ち主から依頼され、主人公のもとを訪れたのでした。耳の彼女が言った「大事な電話」とはこのことだったのです。

その写真は、白樺林が連なる北海道で、30頭以上の羊が写っている1枚。しかしよく見ると、その中の一頭だけが種類が違う上に、背中に星型の斑紋がついているのでした。

どうやらその羊が重要な鍵をにぎるのだと、上巻後半にわかります。その羊にたどり着くまで、実に細かくていねいに羊の歴史や種別などが書き連ねられるのが、村上文学ならでは。

もとは日本に存在しなかった羊がどのようにやってきたか、勉強になります。

その羊がどのように物語に重要にからんでくるかというと、簡単に言いますと、人間の体に意識を入りこませ意識を操作し世界を変えるほどの権力をつくり上げていくということが昔から行われてきたというのです。

謎の黒服の男は、その羊の権力を身につけた死が近い男の秘書でした。彼の言葉はまわりくどくて頭が良くて、絶対に友達になりたくないタイプのものばかりです。

主人公に「私は君に対してできる限り正直に話そうと思う」と言ったのち続けた言葉ときたら。

しかし正直に話すことと真実を話すこととはまた別の問題だ。
正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。

まず最初に正直さが現れ、最後には真実が現れる。

その時間的な差異は船の規模に正比例する。

巨大な事物の真実は現れにくい。

我々が生涯を終えた後になってやっと現れるということもある。

だからもし私が君に真実を示さなかったとしても、それは私の責任でも君の責任でもない

と、途中で遮りたくなる物言い。頭が良く的確に相手の求める言葉を与えられる主人公ではありますが、この時は「答えようもないので、僕は黙っていた」のは理解できます。

謎の黒服男は、写真を主人公に提供した男を教えてほしいと求め、彼はそれを拒みます。友人「鼠」に迷惑をかけたくないからと言って。

そして結局、主人公自身が星を背負った羊を1ヶ月以内に探し出すはめになってしまうのです。探せなければ君は終わりだ、と、具体的なマイナス条件は示されなくとも暗示される形で。

えらいことに巻き込まれたと、高層ホテルの最上階のバーでビールを注文した主人公。ビールがくるまでの間目を閉じた頭の中は、

何百人もの小人がほうきで頭の中を掃いているような音がした。

いつまでたっても彼らは掃きつづけていた。

ちりとりを使うことを誰も思いつかないのだ。

という状態。ちりとりを使うことを思いつかないだなんて、くすりと笑わせてくれますよね。

このように、切羽詰った状況の中でも、どこかしら落ち着きを秘めているキャラクターが、村上作品の主人公には多いですね。自分を客観的に傍観し、どこかしら楽しんでいるような風を漂わせるのです。

バーを出てエレベーターで地上に降りた時の表現も、不安なのに冷静な心境が見事に語られていると思います。

地上ではあいかわらずまともな人々が二本足でまともに歩いていたが、そんな光景を目にしてもとくにほっとした気分にはなれなかった。

周りを見渡すと世間の人々はなんら変わらぬ時間を過ごしているのに、自分だけが妙な時間の中に放り込まれたというような感覚が伝わってくる書き方です。

もうひとつ好きな表現があります。

主人公が謎の黒服男と電話を通して話している際のこと。

受話器をとおして沈黙が新月のように部屋にしのびこんできた。

息づかいひとつ聞こえなかった。

耳が痛くなりそうな完全な沈黙だった。

絵画みたい。小説を読む時は、頭の中にその情景に色を乗せて想像するのが常なのですが、ぱあっとここで闇夜に浮かぶ冷たい月が飛び込んできたものですから、自分でも驚きました。意図せず美しいものを目にしてしまったとき感じるような驚きです。

ひとつひとつの動作や情景を細かく文字にする村上小説は、カラフルな情景が思い浮かぶことが多いのですが、ここで新たなワンシーンが焼きつきました。


自分が守るべきものなんて実はさほどないということに気づいた主人公は、羊を探さなくても失うべきものはそれほどないはずと、羊を探す冒険に出ることをやめようと思います。

ですが、ここで登場するのが耳の彼女。私もいっしょに行くから羊を探しましょうと説得され、最終的に北海道へ旅立つことになるのです。

上巻最後のほうに、飼い猫を黒服の男に預けるためのやりとりのシーンがあるのですが、気持ちがほっこりします。

なぜなら、年老いて体が弱った猫に対し、一見気にしていないようでありながら、実はすごく気にかけているのが、細かい描写から伝わってくるからです。

キャットフードは決まった銘柄しか食べないからなくなったら同じものを買うように、

肉の脂身は吐いてしまうからやらないように、

歯が悪いから固いものも駄目、

朝に牛乳を一本と缶詰のキャットフードを、

夕方には煮干しをひとつかみと肉かチーズ・スティックを、

きれい好きなので便所は毎日とりかえるように、

下痢をよくするが二日たってもなおらなかったら獣医のところで薬をもらうように、

耳だにがつきかけているから、一日に一度オリーブ・オイルをつけた綿棒で耳の掃除をするように(その時鼓膜を破らないように)、

家具に傷がつくのが心配なら週に一度は爪を切るように、

念のために時々蚤取りシャンプーで洗うように、

などなど・・・。これらを全部、黒服の男が電話の向こうでメモしていることにもほほえましさを覚えました。冷たい機械のような男なのに、と思うとおかしくなってしまいます。

その猫は、主人公を黒服の男の居場所へ運転して連れて行った運転手により「いわし」と名づけられます。

このようにして、上巻では北海道に一頭の羊を探しに行くことが決まり、幕を閉じます。

もこもこして優しくかわいらしいイメージの羊ですが、今作では人間の意識を操り世界征服をたくらむ強くて悪いイメージの存在。

さて今後どうなるのか、下巻も一気に読みあげたいと思います。



★村上春樹さんプロフィール

1949年京都生まれ、西宮市・芦屋市育ち。
早稲田大学第一文学部演劇科卒、ジャズ喫茶の経営を経て、1979年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。
当時のアメリカ文学から影響を受けた文体で都会生活を描いて注目を浴び、村上龍とともに時代を代表する作家と目される。
2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。


村上さん著書(一覧

   

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