チェック☆

2011/02/17

余白の愛  小川洋子

余白の愛  小川洋子
¥620(送料無料)



中央公論新社
1991年11月福武書店
1993年11月福武文庫
237ページ


1度読んで、今回読み返した本です。文庫で読みました。

余白の愛」も、小川洋子さんらしい静かで幻想的な世界が、日常生活の中に描かれています。

そのおぼろげで、何かの拍子に全てが壊れてしまうかのような危うさは、水滴のついた窓ガラスの向こうは雪景色の表紙絵に見事表現されていると思います。

物語の中にも雪景色が登場します。きっとこの表紙絵はバスの中から見た風景でしょう。

book ranking

主人公は24歳の女性。小川作品ではよくあることなのですが、固有名詞はありません。彼女が突発性難聴により耳を患ってしまうところから物語は始まります。

突発性難聴と聞くと、急に耳が聞こえなくなる状態を想像しますが、彼女の場合、ものすごく小さな音でさえ大音量に聞こえてしまうという症状でした。

きっかけはどうやら彼女の夫が離婚したいと言い家を出て行ったことのよう。家を出た翌日から耳を患い始めたのですから。他に好きな女性ができたというのが理由。

だからといって、ここも小川作品らしい点なのですが、彼女は泣きくるったり彼を責めたり憎んだりは一切しません。夫を愛していたにもかかわらず、静かに真実を受け入れるだけなのです。しかしやはり心は正直だったのでしょうね。ショックが引き起こしたのが突発性難聴だったのではないでしょうか。

そして、彼女のような突発性難聴の人間が集まる会で速記者として来ていた青年Yと知り合います。Yはまるでそこにいないかのように存在し、速記を終えるといつの間にか姿を消します。

Yのさらさらと速記する指にひと目惚れした彼女は、その後彼に自分の思いを書きとってもらいたいと申し出ます。Yを好きになったというより、速記をするYの指をできるだけそばで見ていたかったからというところも、小川洋子ファンなら納得の展開でしょう。

彼には何も分かってもらう必要などなかった。

彼の指にわたしの言葉を吸い取ってもらうだけで、十分なのだった。

という言葉で、彼女のYへの、というかYの指への思いを言い切っています。

人格や外見ではなく、かなり特定の箇所に執着心とも言える熱い思いを抱くのは、小川作品ではよく見受けられることです。そこに、危うさというか異質さのようなものを感じるのですが、それが魅力。

速記自体についても、細やかに描写されています。Yが速記したものを見せてもらった彼女は、文字を観察します。

一続きの長い模様として眺めると、それは急に魅力を増した。

すぐに飽きてしまうほど単純ではなく、目を疲れさせるほど複雑でもなく、バランスがすばらしかった。

所々に緊張があり緩みがあり、輝きがあり陰があった。

丁寧で優しく自由だった。

もっと前後に描写が加えられていますが、彼女がYの指だけではなくYの速記した文字にも深く引き付けられたことがわかります。

今作で、唯一彼女を現実的に見せてくれる存在となったのが、元夫(となってしまった)の姉の一人息子ヒロの存在であったと思います。固有名詞はこの子だけ。

13歳のヒロは、おじさんとおばさんが離婚してしまったあとでも、元おばである彼女の元へたびたび顔を見せます。なついていたのですね。耳がまだ本調子でなく、寝込んでしまうこともある彼女の看病をしたり部屋の掃除をしてくれたりと、素直で純粋でとてもいい子。

友人の影もない彼女とって、現実的な人間関係はYとヒロとの3人の間でだけ繰り広げられます。そこに悲壮感や孤独感はほとんどなく、それぞれが独立しながらも時に寄り添うといった形の人間関係。

私が小川作品を好きな理由のひとつとして、この一見感情の薄いような人間関係が挙げられます。

濃くて熱いエネルギーのようなものではなく、水彩画のようにほわんと薄くて、ともすれば消えてなくなってしまいそうな感情を持ち合わせた登場人物たちに見えるのに、根底には優しさや思いやりが見え隠れする。

Yの人物像についても、最初は印象が薄くてつかみどころがないなと感じたのですが、最後に悲しい過去がある人間だったと知ることができます。

2人がはじめて食事をした店は、古い邸宅を改造したものだったのですが、そこにある「ジャスミンの間」にまつわる話が、Yの過去につながるものだったのです。

特に謎解きもなく静かに物語を読み進めていき、最後に、「最初に登場したジャスミンの間は、こういう終止符を打たせるために出てきたのか」と納得するのです。

Yは彼女の言葉を全て吸い取り速記を終え、姿を消します。そして彼女の耳も治ります。

さりげなく新たな一歩を踏み出した形で、物語は幕を閉じます。

Yの指だけ抱いて眠るほどの彼女が、いずれYの指を切り取ってしまったりしやしないかと内心ひやひやしましたが(小川作品ではありえますよね)、そのようなサスペンス展開にはならずひと安心。

音を感じさせない、静かで美しい物語でした。


小川洋子さんプロフィール★

1962年、岡山市に生まれる。
早稲田大学第一文学部卒。医大秘書室に勤め1986年、退職。
1988年、「揚羽蝶が壊れる時」により第七回海燕新人文学賞を、 1991年、「妊娠カレンダー」により第104回芥川賞を受賞。
2004年、ベストセラーとなった『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞受賞。

小川さん著作(一覧
  

book ranking